2017/09/10 13:59




『きょこんのかくせい』は悪くなかったと思います

501は、ディレクターと映像の距離が近すぎて、すごい切迫感、焦りとかプレッシャーとストレスのようなもの、そういう脈拍が、つまり、私は、作品の速度、つまり、テンポアップとして、痛々しいくらいに見ている側に伝わったので、私がいうのは、なんですけれど、なんていうマゾヒティックな!という、この作品を撮った監督は、よっぽどのドマゾ!途中で収集がつかなくなるあたり、本当に大丈夫かな?と心配したほどで、それは、やはり、監督と被写体との、つまり、総じて作品との距離感からくるところだと、前回の501は近すぎ。


今回のきょこんのかくせいは、もっと引いて、客観的に落ち着いて見れた。


こうした作品に対して・・・


まんま正直に真正面から捉える、それは、監督の狙いを真正面から受け止める、そういうのは、ダサいのか、カッコ悪いのか、よくわからないですが、まあ、そういう笑いとか、そのまんま、監督の術数にはまるという事は、結構、居心地良かった、快感だったとだけは言っておきます。気持ち良ければいいじゃん!と、この手の作品というのは、それ以下でもそれ以上でもない。

たとえば、出演者に深みがないとか、総じてちゃちであるとか、そういうことを大上段に構えて、文学的にどうだとか、そういうことをまな板で論じることさえ馬鹿げている、と、私がいうのは、みのる作品に関しては、気持ち良ければすべてOKというのは、私がこういうものを見慣れていない、あまちゃんな見解なんですかね。


私が特に感じたのは、「きょこんのかくせい」は「501」の時との相違として、テンポ感、作品全体に流れる切迫感、それを総じて、我ながらこのたとえは気に入っていますが、脈拍が違う、それは被写体または作品との距離感からくるのだと。


それと、この作品は、つまりこの手の作品というのは、みのる君にしか撮れないのだと。私が総じてあまちゃんな批評なのは、私がこの手のものを見慣れていないせい?でも、私は他に比較しようがないので、目の前のものを肯定するしかないのですが、ただ、みのる作品の根底にあるのは、つぶやきなんですよ。つまり、対話でないんです。対話というのは、相対していますから。


肯定否定、肯定否定、肯定否定というふうに進んでいきますが、つぶやきというのは、ひたすら、肯定、肯定、肯定~というふうに進んでいきます。ある出演者というのは、ディレクターのダミー、つまり、体の一部ですね。みのる君はすごいやさしいと思いますし。まあ、被写体としては、起点となる切り口としては間違いない、まあ、どうしようもないですよ。どうしようもないものを否定でなくて、どんどん、どんどん煮詰まらせて、腐らせて、あくまでも、肯定的に、自然に煮詰まらせて、腐らせていく、あくまでも、自然発酵という、生かさず殺さずというか、みのる君の袋小路に追い込む口調が、悪魔のささやきに聞こえて仕方がない。


まあ、ぬるま湯ですよ。まあ本当に、これだけ、煮ても焼いても喰えないものを、さらに、ぬるま湯に浸けて、まだその上、自然発酵させていけば、もうどう考えても笑いにしかならない、醸し出す空気はいい感じでしたよ。特に前半はね。それでもし、この作品がみのる君以外の違う人が撮ったら、と考えましたが、そうしたら、力の入れ具合を間違えて、『嫌な作品』になっていたと思います。この手の作品は、本当に力の入れ具体、また力の抜き具合なんですよ。


それはもっと言えば、AV業界を含む映像を商品としての、それを取り巻く環境にあると思います。


もう映像を商品とすること、もうみんな食傷もいいところまで、そういう意味では、下の下、最低レベルのところまで来ている。たとえば、メイキングとかもへどが出る、むしろ、こうしたみのる作品とかそういうぐらいにしか、ないんではないのか、という。いやなんですか、自分で言ってても、ポジティブですね。肯定的ですね、評価高いですね。実は、マゾバイブルというのは、実は、ものすごい肯定的な思想なんです。と、ちょっと思いました。とりあえず。